アスリートの競技経験や知見の持つ価値を、社会において最大化させるには――。
そんなテーマを紐解く「よみもの」が始まります。
ライフネット生命保険株式会社は2016年5月、デフリンピック選手の岡部祐介さんを社員として採用しました。同社にとって、初めての「障がい者雇用」であり、また「アスリート雇用」でもあります。
聴覚障がいの当事者であり、アスリート。そんな岡部さんを迎え入れたことで、社内にどのような変化があったのか。そして岡部さんは、どのように社内にフィットしていったのか。同社で人事担当マネージャーを務める関根和子さんと、広報担当リーダーの原由美子さんにお話を伺いました。
面接は、パソコンに文字を打ちながら
――まず、御社のアスリート雇用の経緯について伺えますか。
関根:当社は約150人の社員が勤務しているのですが、これまで障がい者の雇用をしておりませんでした。ですので、法定雇用率を満たさなければならないというのが、そもそものスタートでした。
そこで、どのような障がいかに関わらず、採用活動を続けていました。そんな中、当時の社長だった岩瀬(大輔氏)の「社員にも良い風を吹かせてくれるような人が良いね」という言葉がきっかけで、岡部さんをご紹介頂いたという経緯になります。
――どのようなプロセスを経て、岡部さんは入社に至ったのでしょうか。
関根:それまで聴覚障がいの方と接したことがなかったので、本当に手探りの状態で面接を開始しました。「志望動機は?」といったストレートな質問であれば岡部さんも答えやすかったようですが、「今後のキャリアプランは?」といったややフワッとした質問をした時には、岡部さんの伝えたいことをこちらが理解するまでに凄く時間がかかりました。相互理解を深めるためにパソコンを持ち出して、お互いに文字を打ちながら面接を進めました。手話通訳者もいなかったもので……。
ただ、私たちが(聴覚障がい者との)コミュニケーションに慣れていない中でも、真摯に、丁寧に答えようとしてくれていた岡部さんの姿勢から、当時の人事部長とも、働く仲間として迎え入れるイメージを深めることができました。その後、数名の役職者の面接を経て採用に至りました。
――面接も1回あたり、通常よりも長く実施したのではないでしょうか?
関根:そうですね。人事担当者だけでも3回程お会いしました。役員面接も、通常はトータル30分程度で終えるところを、社長含めていつもより長めに時間を取りました。最終面接になると、私たちも少し慣れてきて、「(岡部さんに)聞きたいことはストレートに聞いてください」というような具体的なアドバイスをしながらやってましたね(笑)。
――「今後のキャリアプラン」という言葉がありました。今では、岡部さんは、ろう者のスポーツ環境を良くしたいといった夢を持たれていますよね。入社当時はどのようなことを言われていたんですか?
関根:当時は周りに対して、というより「まずはトレーニングに専念する環境が欲しい」と。ただ、アスリートとしての第一線を退いた後のことも真剣に考えているから、現役を引退したら役目が終わってしまうような環境ではなく、色々な可能性を探りたいんだと。だからトレーニングをしつつ、ビジネススキルも身につけたいということも言われていたので、それらは汲み取って、入社後の活動にも反映していきました。
「苦手」な飲み会も「運動」で解決
――入社後は具体的にどのような仕事をされているのでしょうか?
関根:今は人事総務部に所属して、社内のシステム的な業務や、他社動向のチェック、それからマーケティング部を兼務して広報活動もして頂いてます。
また、「健康経営」の推進にも関わってもらっています。ストレッチセミナーを開催したり、食事に関する情報をシェアしてもらったり。岡部さんを“健康大使”として、社員が健康に働く環境を推進する取り組みを順次始めています。
「手話」という切り口では、全社朝礼で手話での挨拶なども取り入れています。朝礼は月曜日の午前中にやっているので、岡部さんはトレーニング日で出社できませんが、代わりにあらかじめ撮影しておいた手話の動画を朝礼で流しながら、社員が真似をして、手話の習得をしています。
毎月、第三月曜日を「CS(=Customer Service)の日」としていて、その日はお客様に対してや、社員同士で「いつも有難う」を手話で伝えましょう、などと呼びかけています。それをやると、社内がとても良い雰囲気になります。
原:ちょっと険しい顔というか、役割上一見怖そうに見える役員も、皆一生懸命、教えられたとおりに真剣に手話をやっています(笑)。
関根:口頭で「皆さん、感謝し合いましょう」と言ってもなかなか難しい時もあります。それが手話になると皆照れずにやってくれる。少しやると場が和んだり、口に出すと少し恥ずかしいことを伝えられたりします。
先日は、岡部さんが国体(全国障害者スポーツ大会)で6連覇したので、岡部さんが出社してきたら、皆で「おめでとう!」と手話で伝えました。いつのまにか手話が社内で浸透してますね。社内には「手話部」もあって、岡部さんが部長を務めています。大きな試合が終わった後などに、岡部さんが「手話ランチ」を企画する時もあります。
――まず手話を起点に社内にフィットしていったんですね。
関根:そうですね。ただ、それはスポット的なもので、本人も苦労していたこともあるようです。皆が楽しそうに話しているけど、自分はそこに入れない。私たちも、最初はそういうことにも気づかず、島を作って話してしまっていたことも結構ありました。
――気づくきっかけは何かあったのですか。
原:岡部さんのインタビューの時のやり取りで気づいたんです。例えば、会社の飲み会。岡部さんが入社された時、大勢で歓迎会を開いたんです。そうしたら、皆さんがワッと岡部さんに喋りかけるので、ストレスがあったはずです。一人ひとりの口元を見るのも追いつきませんから、話している内容もよくわかりませんし。本当は、飲み会をやるなら、少人数が良かったんですが、私たちは最初それを知らなくて。それは、岡部さんに限らず、多くのろう者の方も同じなんですね。そういったことを、少しずつ知っていきました。
関根:だからその後は、岡部さんを交えて飲み会をやる時は、座敷とかではなくて、なるべくボーリングとか、卓球とか、体を動かしながらコミュニケーションをとる形に変えました。それなら皆で一緒にできるじゃないですか。
原:スポーツ選手の広報をやっていてなんですが、私は運動が苦手なんですけど、行ってみたら楽しくて。
――今までなかった社内コミュニケーションのスタイルが、岡部さんの入社をきっかけにして生まれたと。
関根:私は今は育児中でなかなか夜の会に行けないんですけど、あとで写真を見ると凄く楽しそうで。人事総務部って結構年配の方もいるんですけど……。
原:普段、会社の方とハイタッチなんてなかなかしないじゃないですか。でも同じチームでハイタッチとかすると、「この人、こんな感じなんだ」と。
――あらたな一面が(笑)。
関根:普通の飲み会ではそんなことはなかったと思います。岡部さんだけではなくて、他の社員同士のコミュニケーションにも良い影響があると感じています。
時には厳しい言葉で背中を押す
関根:もう1つ気づいたことは、手話と(口話での)日本語は違うということ。岡部さんはメール1通送るにも凄く考えて「これは(日本語的に)大丈夫なのか」と、恐る恐るメールを送っていたみたいですが、それにも最初は気づかなかった。会議の時はスライドを見てもらうことに加えて、隣で筆談ボードに字を書いて見せたりして、それで事足りているかと思っていたら、細部まで伝わっていないことも多かった。
社内で開催している勉強会も、岡部さんは、出たくても毎回隣で要約筆記を頼むのが申し訳ないと遠慮していた時もあったみたいでした。それらを少しでも解消できるようにと、オンラインの手話通訳サービスを導入しました。でも、そういう事情に気づくまでに1年以上かかってしまいました。
――まずはコミュニケーションの面でサポートが必要だということに気づくことが大切ですよね。
関根:そうですね。不特定多数の人とのコミュニケーションはまだ難しい部分もありますが、一方で、岡部さんの入社を機に、良い意味で社内にも変化が生まれていることは事実です。手話ランチを企画すると、入社間もない社員も結構参加してくれます。社内ファンが多いです。
また、岡部さんは、ビジネススキルを身につけたいという意向もあるので、彼に関わる契約や請求処理は、なるべく本人に対応してもらうようにしています。契約の締結から社内決裁、請求処理をしてもらう事もあります。対お客様の取引では、誤りがないよう、都度相談をしながら事務を進めています。
原:私の視点で言えば、岡部さんは「アスリート雇用」の選手ですから、スポンサー企業に対して活動報告もきちんとしないといけないよね、というスタンスです。岡部さんは、会社だと遠慮して「皆さんが仕事をしている中で、自分の陸上の話なんて」と、周囲に気を遣いすぎてしまう時もある。最初の頃は取材や講演も「恥ずかしい」と言って表に出たがらなかったですね。
でも、アスリートとして大成して欲しいからこそ、厳しい言葉もかけて背中を押す、といいますか。「そんな心構えじゃダメだよ」と。「鬼広報」と言われますけど(笑)。
後編に続く→
(取材・構成・写真/吉田直人)