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デフリンピックアスリート 岡部祐介(ライフネット生命所属)にとっての「2つのスタートランプ」

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デフリンピックアスリート岡部祐介(ライフネット生命所属)にとっての「2つのスタートランプ」

岡部祐介

2017 年7 月
トルコでデフリンピックが開催される。
4 年に一度開催されるデフリンピックは、
聴覚障碍者のオリンピックだ。
出場条件は、
補聴器をつけていない
状態での聴力損失が
55db を越えていること。
競技中に補聴器を付けることも
禁止されている。

 

デフリンピック選手は、
音のない世界で戦っている。
音を知る人は
本当に音のない世界を
想像することは難しい。

 

反対に、音を知らない人が、
音の存在を想像することだって難しい。
聴覚障碍といっても
生まれつき聞こえない人、
ある時に失った人など様々だ。
岡部祐介は音のない世界で、
デフリンピックの舞台で、
戦っている。
生まれたその日から
音を置き去りにした。
自分の名を呼ぶ声にも反応できず、
耳を交換したいという
母親の言葉も聞こえなかった。

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レースが始まろうとしている。
緊張の汗がトラックに落ちる。
視線を落とした先にはスタートランプ。
聴覚障害を持つ短距離ランナーはこれがなければ
上手くスタートすることができない。

「On Your Marks」の文字が
画面上に表示される。
じっと見つめる。背景は赤い。
音は何も聞こえない。
きっと、音を知っていても、
この瞬間は何も聞こえなくなるだろう。
それくらいに集中している。

「Set」の文字に変わる。
背景も黄色に変わった。
緊張しているのが分かる。
身体はバネが震えているようだ。
今か今かと、
数週間前から続く緊張感が
一気に吹き出そうとしている。

「Go」スタートの合図と
同時に走り出した。
誰よりも速く。
何よりも速く。
岡部祐介は集中している。
何も聞こえない。
音を置き去りにして、
ゴールへ向かって走っている。

 

 

 

スタートランプを使うことができないレースも存在する。
ときに、派遣基準のタイムを切るために
一般の記録会に出場しなければならない。
一般の記録会ではスタートランプがない場合、
設置できない場合が存在する。
その存在を知らない人だっている。
短距離走において、
スタートの合図が分からないことは致命的だ。
一秒以下を争う戦いで、
その影響はあまりにも大きい。
大きすぎる。
補聴器をつければ、
なんとか「音」の存在を認識することができる。
だけど、それも曖昧な存在で、
さまざまな音と混ざってしまう。
応援の声も、ピストルの音も、雑音も、
すべてが「音のようなもの」で
その種類を区別することはできない。
岡部にとって、
ただ一つのピストルの音だけを
つかみ取ることが難しい。
スタートのタイミングを見計らい、
周りの様子を伺い、
よくわからない「音」に
耳を澄ます。
スタートランプがなければ、
音以上に多くの情報が
溢れかえってしまう。
スタートランプがあれば、
ただ走ることだけに集中できるのに。
デフリンピックであれば必ず
スタートランプが設置されている。
雑音に心を乱されずに戦える。
音のない、集中した世界に没入できる。
最大限の自分のパフォーマンスができる。
2016 年5 月
岡部祐介はライフネット生命保険に入社した。
一社員として働きながら、
競技を仕事として行うアスリート雇用として初めての社員だ。
早朝に練習をしてから出社する。
陸上で結果を出すだけだったら、
デスクワークをこなす必要はないかもしれない。
ただ、アスリートとして走り終えたときに、
夢の舞台から降りたとしても
まだまだ走り続けていたかった。
次の舞台でも走り続けていたい。
場所が変わっても方法が変わっても、
まっすぐに前を見て走り続けていたい。
競技だけを続ける選択肢も存在した。
デスクワークをすることなく、
競技結果だけを求めることができる場所もあった。
ただ、競技を引退した後に
残るものはあるのだろうか。
栄光をつかみ取った後に、
新たに走り出すことはできるのだろうか。
スタートランプもなければ
思うように走りだせない岡部にとって、
引退後のスタートランプが必要だった。
岡部には次の目標、ゴールが必要だった。
そして、走り続けること、
働き続けることが
企業としての願いと一致した。
岡部祐介はライフネット生命保険に入社した。

 

業務風景1

 

 

 

 

 

 

 

岡部の隣の席では篠原広高が働いている。
岡部は会社の中での唯一のアスリート。
初めて会ったとき、
篠原は事前に聴覚障碍があると聞いていても、
気にならなかった。
耳が聞こえないことは、
一見して分かることではない。
ただ、アスリートであることは
その大きな身体で判断することができた。
何も知らずに外で見かけても、
聴覚障碍があることは分からないだろう。
それでも、スポーツ選手かもしれないと思うことはありそうだ。
できないことよりも、
できることが際立っているように思えた。
仕事ぶりも同じだった。
確かに、耳が聞こえないことでサポートが必要なことはある。
大人数での会議では流れる言葉についていくことはできない。
会議中に文字を起こしたり説明したりする。
会議の内容を後で確認し、質問し直される。
言葉の意味がずれて通じてしまうこともある。
例えば、手話の世界では
「13 時10 分前」と言われると、
発音によって生じるニュアンスは、
なかなか伝わらないらしい。
文字にして考えてみると「12 時50 分」のことなのか、
「13 時10 分の少し前」のことなのか分からないのだ。
手話が母語で、日本語は勉強中だという言葉が篠原の胸に刺さる。
岡部は自分にとってできないこと
分からないことをそのままにしておかない。
小さなことでも正確に理解しなければいけないことを知っているから。
スタートランプがあれば、
万全の走り出しができるように、
周りのサポートを感じながら、
自分にできる仕事を遂行する。
その真面目さを隣の席の篠原は感じている。
スポーツで結果を出すことは
仕事で結果を出すことと違う次元にある。
仕事であれば役割を
確実にやり遂げることが重要だ。
しかし、スポーツにおいては対戦相手による影響が大きい。
ただ、自己タイムを出すだけでなくて、
相手に勝つということに重要性がある。
岡部は、そんな状況の中で、
活躍した結果を当たり前のように報告する。
その結果に、こんなに凄い人と働いていたのかと、
毎回のように驚かされる。
真面目でまっすぐな姿勢は
スポーツで鍛えられているのだと痛感する。
それでも、
岡部祐介にはできないことや苦手なことが確かに存在する。
ただ、それ以上にできること、
得意なことが輝いているように見える。
その魅力を最大限に発揮してもらいたい。
今まで当たり前のように考えて気が付かなかったことを変えて、
働きやすい環境を実現したい。

篠原は手話技能検定の勉強を始めた。
隣の席に最高の先生がいるので、教科書は買わずに挑戦してみた。
岡部の手話はカッコいい。
検定の先に、
やりたいことがあるのではなく、
自然に、やろうと思った。
普通なら受け身になりがちな朝礼、
ライフネット生命保険では、
毎週ひとつ、手話を覚えている。
その時期に合わせて
「暑い」や「目標」など
すぐに使えるものが紹介される。
聞くだけになりがちな朝礼という場所が、
皆が体を動かす場所となった。
皆が参加している朝礼は、
一体感が生まれる。
新しく覚えたコミュニケーション手段は
使ってみたくなる。
使ってみると生まれる笑顔は、
気持ちいいものだ。
新しい共通言語が生まれた集団には、
さらに団結力が生まれていく。
不思議な力だ。
岡部が海外遠征を終えて、
会社に戻ったとき、
教えていないはずの
祝福の手話がフロアに溢れた。
事前に同僚が送った社内のメールを通して
こっそり練習していたのだ。
競技で結果を出せた喜び、
祝福を感じる喜び、
祝福をする喜び、
そこにはさまざまな喜びが
目に見える景色となって現れた。
結束力が固まっていくのを感じた。

 

これまでは当たり前だったことを
何度も見直すことができた。
通じると思っていることが、通じない。
違う解釈を生んでしまうことがあることに気が付いた。
岡部が働きやすい環境をつくることは、
だれもが力を発揮できる環境を創り出すことではないだろうか。
岡部と働くことで、
初めて知ることがたくさんあった。
少しずつ会社が変わっていく。
競技での結果だけじゃない影響を常に感じることができた。

2017 年7 月18 日から30 日まで、
第23 回夏季デフリンピックがトルコで開催される。
岡部祐介は4×400mリレー日本代表として、
今年こそメダルを取りたいと考えている。
子供の頃に抱いた夢をそのまま持ち続けて、挑む。
応援されることは嬉しくて、
結果に喜んでくれることはもっと嬉しいはずだ。
補聴器をすることが禁止されているデフリンピックでは、
雑音に惑わされる心配はない。
そして世界中から集まった
アスリートと支えてくれるメンバーがいる。
できないことがあっても、
できることで輝くことができると信じている。
スタートランプがなければ
スタートすることさえ難しいけれど、
そうした支えがあれば
その力を発揮することができる。
あとは、そこで全力を尽くすだけ。
真面目に、まっすぐに走り続けた結果を示すだけ。
仲間と二人三脚で、
岡部祐介はその夢を実現する。

文・ムコーダマコト

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